他人本位の自分
最近、欅坂の曲にハマっています。
かっこいい曲調、若い女の子たちが歌うからこそ味が出る歌詞
センターの子に重荷を負わせすぎではないか、全体的に無理をさせたパフォーマンスが多いのではないかと疑問を投げかけたくなることもあるけど
彼女たちが全身全霊で投げかけてくるメッセージには考えさせられるものがあります
真っ白な群れに悪目立ちしてる
自分だけが真っ黒な羊
―『黒い羊』
孤独なまま生きていたい
だけど一人じゃ生きられない
―『アンビバレント』
メジャーな曲たちが主に語るのは、大衆に埋もれた個の存在
後ろ指をさされ、かき消される少数意見
私たちはいつから一人になることを怖れ始めたんだろう
いや、周りと違うことで一人になると思うようになってしまったんだろう
当の私も周りと差を感じることが大の苦手で、夏に楽しそうに仲間たちと花火に行く写真をインスタなどで見かけてはよく落ち込んでいたものでした。
別に家族と見たっていいのに。夏に花火を見なければ友達がいないってことにはならないのに。
かつては私もそんなこと気にしてませんでした。友達に地元の花火大会に誘われても、うちは毎年家族と見るのが恒例なんだって断っていた
それがいつからか、友達と行かずに家族と過ごす花火に対してなんとなく肩身の狭さを感じるようになった
最近のクリスマスはもっぱら恋人と過ごしているけど、この前2年ぶりに味わった日本のクリスマスムードは恋人のいない人にとって明らかに居心地の悪いものだと感じた。
1年半前、イギリスでは…みんな実家に帰っちゃって、店もことごとくお休みでとにかくしーんとしてた。笑 その中でも残った人たちでささやかにクリスマスをお祝いしたのはなんだか平和で、とっても楽しかった。
話は変わるが、SNSに投稿するために定番のお出掛けスポットに行く人々にも疑問を抱く。
もちろん私だって興味はあるけど、「その場所に行きたい」より「そこにお出掛けしている自分を見せたい」が知らないうちに先行しているのかもしれないと思う時もある。
だから基本的にはその場所に行った後で事後投稿をし、余韻や思い出に浸るというやり方を取っている。
昨日かおとといの話だけど、インスタで知り合い3人が同じ日にひたちなか海浜公園のネモフィラをアップしているのを見かけた時はげっそりしてしまった…混雑のあまり、GW期間中は都内から車で4時間以上かかるとかなんとか。
いつから相手ありきの自分になってしまったんだろう。見せる姿を意識するようになってしまったんだろう。
華やかなことばかりでなくていいのに。一人の時もたくさんあったっていいのに。暇な時間だって持った方がゆとりがある。
それでも私たちは型にはまったことをしたがる。群れていれば安心だし、自分で自分をどんどん忙しくする。
安心と自由は、時に比例しない。
でもそんな自分を演じることにちょっと疲れてしまった時、こういう陰のある曲って背中を押してくれる。歌詞に思いを馳せ、電車からふと外を眺めるその瞬間、ちょっぴり私が私でいられるのかもしれない。
そんなことを考えました
完全に思いつきの記事なので、気が変わったら下書きに戻しちゃうかも。